M-1雑感

 M-1は2005年、2006年あたりが一番レベルが高かったと思ってるけど、それはまず賞レース自体が黎明期を過ぎ、安定期を迎えたことにより、出演者たちがある意味対策を練りやすくなったことと、そこに誤解を恐れずに言うなら、長らく「正しい笑い」という価値観を司る存在であった紳助、松本の視線、彼らが放つ緊張感があったことがまず要因だと思う。そしてなにより、M-1以前は、ネタ番組自体が少なくて、全国ネットでネタを消費されていない、すなわち舞台などのアンダーグラウンドな次元で活動していた芸人で溢れかえっていたことという事情がある。全国ネットで漫才を披露するチャンスなどなかった芸人たちは、M-1という全国ネットの賞レースでそれまでの欲求不満を爆発させるように、漫才を切磋琢磨させていった。いくつかの条件が重なったことによって、M-1史に残るような漫才たちは生まれた、と筆者は考えます。

 

 ところで、若手芸人にとって漫才とはなんだろう。漫才をするための動機としてはさまざまなものがあるだろう。漫才をきっかけにテレビタレントとして売れたい、笑いがとにかく好きで自分たちの発想を伝えるいち手段として漫才を選んだ、伝統芸能としての漫才に愛着がある、などだろうか。筆者が予想するに、とにかくテレビで売れたい、あるいは笑いというひとつの表現の感性を世の中に見せたい若者が多いように思う。大御所のする伝統的な漫才に憧れるものでない限り、漫才自体への愛着より漠然とした「笑い」という表現に対する想いの方が強いのではないだろうか。とにかく人を笑わせたい、と。あるいは、自分の感性の凄さを世の中に認めさせたい、と。

 しかし、数多ある笑いの表現手法がある中で、あえて漫才を選ぶ若者が多いのは、芸人たちが売れるために辿るシステムに理由がある。会社がいくつもの劇場を抱える吉本芸人をはじめ、他のプロダクションの芸人もまずは2分程度の時間しかチャンスが与えられない。芸人、芸人を志すものなど世の中に星の数ほどいる。聞く話によると、大阪吉本の養成所NSCには毎年500名以上の生徒が入学するらしい。ちなみにNSCは東京にもあるがそこも同じくらいの生徒数らしい。そのほかにもNSCを経由せず、プロダクションが主催するオーディションに参加するものも多いだろうから、その数は莫大だ。その中からプロダクションが芸人を選別するために一組一組時間をかけて見られるはずがない。

 芸人サイドに立ってみよう。笑いを表現する手段として、フリートーク、コント、漫才などさまざまなものがあると思うが、短い時間のなかで一番効率よく客を笑わせることができるものはなんだろうか。そう考えたとき漫才の機能性というのは素晴らしいものがある。そういった事情から手段のひとつとして選ばれた側面が強いのだと思う。

 とにかく笑わせたい、売れたい、モテたい、という欲求不満が、ある一定の緊張感のなかで爆発したら、恐ろしいクオリティのものができる。このことをM-1は筆者に教えてくれた。

 そして、今年のM-1ですが、正直面白くはありませんでした。しかし、それは個々の技量というより、もう漫才のネタのパターンが一般レベルにすら周知されて久しい、すなわち、漫才業界全体でネタ切れが起こっていること。そして、紳助はもういないし、松本人志もかつてのようなカリスマ性を持っていないことによる大会の緊張感のなさが起因しているのでしょう。マンネリ化は数年休んだだけでは、解消されなかったのです。

 個人的に一番好きだったのは、さや香。ネタの出だしが昔のダイアンっぽくて、ハライチのクイズネタのような気まずさを一瞬覚えたが、ネタの展開に安心。ああいうバカバカしくはっちゃけたテンションでボケるひと、好きだなー。

 ところで、M-1、来年以降もずーっと続くわけ?